貝原益軒(かいばら えきけん)は1630年(寛永7年)、福岡藩の祐筆(ゆうひつ。文書や記録を扱う役)を務めた貝原寛斎の五男として、福岡城内で生まれました。名は篤信(あつのぶ)。はじめは「損軒(そんけん)」と号し、晩年に「益軒」と改めています。
浪人から藩の学者へ
黒田長政に始まる福岡藩に仕えた益軒ですが、若いころに2代藩主・黒田忠之の怒りに触れて職を離れ、浪人の身で医学などを学びました。1656年(明暦2年)、父のとりなしで3代藩主・黒田光之のもとに戻ると、藩の費用で京都に遊学して朱子学などを修め、1664年(寛文4年)に帰藩。以後は藩の儒学者として、藩主の命による『黒田家譜』の編さんなどにあたりました。
歩いて確かめた地誌と、暮らしの学問
『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』は、1688年(元禄元年)に編さんを始め、甥や弟子とともに筑前の村々を歩いて調べ上げた地誌です。1703年(元禄16年)にいったん4代藩主・黒田綱政に献上し、さらに手を加えて1709年(宝永6年)に完成しました。福岡・博多の町や寺社、各郡の名所旧跡から特産品までを記した全30巻は、今も筑前の歴史を知る手がかりとして重んじられています。
同じ1709年には、国産のものを重んじた独自の分類で動植物や鉱物を記した本草書『大和本草(やまとほんぞう)』を刊行。1713年(正徳3年)、84歳でまとめた『養生訓』では、食事や睡眠、心の持ち方など、日々の暮らしに根ざした健康の心得を説きました。京都の書店・柳枝軒(りゅうしけん)と組み、仮名を多く使った読みやすい本で学びを広く届けようとしたことも、益軒の特色です。
妻・東軒とともに
妻の東軒(とうけん)は詩文や和歌、書にすぐれた人で、当時としては珍しく夫婦で各地を旅し、益軒の紀行文の多くに筆を添えたといわれます。益軒は1714年(正徳4年)に85歳で亡くなりました。福岡市中央区今川の金龍寺(きんりゅうじ)に墓と銅像があり、荒戸には屋敷跡の碑が残っています。