江戸1601年〜

黒田長政と「福岡」の誕生

関ヶ原の戦いの功で筑前に入った黒田長政が福岡城を築き、黒田家ゆかりの地にちなんで城下を「福岡」と名づけました。那珂川をはさんで、武士の町「福岡」と商人の町「博多」が並ぶ双子のまちが生まれます。

福岡城跡の天守台と石垣
写真提供:福岡市

黒田長政は、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(孝高、出家して如水)の子です。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川家康方として功を挙げ、豊前中津12万石から筑前52万石の大名となって、その年の12月に筑前へ入りました。

名島から福崎へ、「福岡」の誕生

長政は初め、前の領主・小早川秀秋の居城だった名島城(なじまじょう、今の東区名島)に入りましたが、城下町としては手狭でした。そこで博多の西隣、那珂郡警固(けご)村の福崎と呼ばれた丘を新しい城地に選び、1601年(慶長6年)から父の如水とともに築城を始めます。城はおよそ7年をかけて完成し、黒田家ゆかりの地である備前国邑久郡(おくぐん)福岡(今の岡山県瀬戸内市長船町)にちなんで「福岡」と名づけられました。家臣の家に伝わる書状によれば、石垣には名島城の石が再利用されたといいます。

城は本丸・二の丸・三の丸からなり、城内には47の櫓があったとされる、九州でも有数の規模です。西側では「草香江(くさがえ)」と呼ばれた入り江を外堀に取り込みました。天守が建てられたかどうかは長く謎とされてきましたが、近年、天守の建設に触れた江戸時代前期の書状が見つかり、研究が続いています。那珂川をはさんで西に武士の町・福岡、東に商人の町・博多が並ぶ姿は、この時に形づくられました。

今に残る城と黒田家の宝

明治以降、城の建物の多くは取り壊されたり払い下げられたりしましたが、石垣はよく残り、1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されました。南丸の多聞櫓(たもんやぐら)は江戸時代から元の場所に残る唯一の櫓で、国の重要文化財です。崇福寺に移されて仏殿として使われていた潮見櫓(しおみやぐら)も、2025年に本来の場所へ移築・復元されました。本丸から三の丸にかけての一帯は舞鶴公園として親しまれ、古代の鴻臚館の跡とあわせて福岡城跡・鴻臚館跡として見学できます。

外堀だった草香江は、昭和の初めに東亜勧業博覧会の会場として整えられ、1929年(昭和4年)に大濠公園として開園しました。国宝の金印や、黒田節に歌われる名槍「日本号(にほんごう)」は、1978年(昭和53年)に黒田家から福岡市へ寄贈され、福岡市博物館に収められています。如水と長政をはじめ歴代藩主の墓所は、黒田家の菩提寺である博多区千代の崇福寺(そうふくじ)にあります。

Contact

お問い合わせ

設備設計のご相談・ご依頼、採用に関するお問い合わせはお気軽にどうぞ。