
13世紀、モンゴル帝国は東アジアに支配を広げ、南宋との戦いを進める中で、高麗や日本にも圧力を強めました。服属の求めを日本が受け入れなかったため、元(モンゴル)は高麗とともに二度にわたって北部九州へ大軍を送ります。
文永の役と石築地
1274年(文永11年)、軍船約900艘、兵約3万の元・高麗軍が対馬・壱岐を襲ったのち博多湾に入り、百道(ももち)付近などに上陸しました。少弐景資(しょうに かげすけ)らの率いる九州の武士が迎え撃ちましたが、町は大きな被害を受け、筥崎宮(はこざきぐう)も社殿を焼かれています。元軍は夜には船に引き上げ、翌朝には姿を消していました。暴風によるとする説もありますが、引き揚げの理由ははっきりしていません。
再来に備えて、幕府は1276年(建治2年)の3月から8月にかけて、博多湾岸の砂丘の上に石を積んだ防壁を築かせました。西の今津から東の香椎まで約20km、九州の国ごとに受け持ちの区間を割り当てての工事でした。当時は「石築地(いしついじ)」と呼ばれ、「元寇防塁」は後に九州大学教授の中山平次郎が名づけた呼び名です。
弘安の役と防塁の働き
1281年(弘安4年)、朝鮮半島から来た約4万の軍が再び博多湾に迫りましたが、石築地に阻まれて上陸できず、肥前の鷹島(たかしま)方面へ退きます。そこで中国南部から来た江南軍(軍船約3,500艘、約10万)と合流しましたが、7月30日夜からの暴風雨で軍船の大部分が沈み、壊滅的な被害を受けました。幕府はその後も三度目の襲来に備えて防塁の補修を続け、鎌倉時代の末には博多に九州の御家人を統率する鎮西探題(ちんぜいたんだい)が置かれます。肥後の武士・竹崎季長(たけざき すえなが)が自らの働きを描かせたとされる「蒙古襲来絵詞」には、石築地の上に陣取る武士の姿も描かれ、2021年に国宝に指定されました。
今に残る防塁
役目を終えた防塁は砂に埋もれ、石材は福岡城の築城などに転用されて、多くが姿を消しました。それでも1931年(昭和6年)に国の史跡となり、その後も追加指定が重ねられています。西新(早良区)、生の松原(西区)、今津(西区)では、発掘された石積みが整備・復元されています。筥崎宮の楼門「敵国降伏」の額は、文永の役のあと社殿の再興にあたって亀山上皇が納めた宸筆(しんぴつ)を、安土桃山時代に小早川隆景が楼門を建てた際に写して拡大したものです。