菅原道真(すがわらのみちざね)は845年(承和12年)、朝廷に仕える学者の家に生まれました。学者として最高の地位である文章博士(もんじょうはかせ)となり、国史の編さんにも携わります。讃岐守として地方の政治も経験したのち、宇多天皇の信頼を得て、学者としては異例の右大臣にまで昇りました。
都を追われ、大宰府へ
901年(昌泰4年)、道真は藤原時平(ふじわらのときひら)の策謀により、身に覚えのない罪で大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されます。大宰府へ向かう途中、博多に立ち寄った道真は、四十川(今の薬院新川)の水面に映るやつれた姿を嘆いたと伝えられ、その地にまつられたのが水鏡(容見(すがたみ))天神です。1612年(慶長17年)、福岡藩主の黒田長政が福岡城の鬼門を守るため今の場所へ移したのが水鏡天満宮で、天神さま(道真)をまつるこの神社にちなんで、一帯が「天神」と呼ばれるようになったといわれます。
大宰府での住まいは「南館」と呼ばれる荒れた官舎で、食べるものや着るものにも事欠く暮らしでした。それでも道真は人を恨まず、天拝山(てんぱいざん)に登って国の平安を祈ったと伝えられます。903年(延喜3年)2月25日、道真は都に戻ることなく、59歳で亡くなりました。南館の跡は今の榎社(えのきしゃ)で、1023年に道真をとむらう浄妙院が建てられたのが始まりとされます。秋の神幸式大祭(じんこうしきたいさい)では、太宰府天満宮の御神輿がここまで渡ります。
墓所の上に建てられた天満宮
道真の亡きがらを牛車で運んでいたところ、牛が伏して動かなくなったため、門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)がその地に葬り、祀廟を建てたと伝えられます。919年(延喜19年)には天皇の命で社殿が造られ、これが太宰府天満宮の起こりです。都では道真の名誉が回復され、923年に右大臣に戻されたうえ、のちに太政大臣を贈られました。道真は「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」すなわち天神さまとしてあがめられ、学問や文化の神として全国で信仰されるようになります。今の本殿は1591年(天正19年)に小早川隆景の寄進で建てられたもので、国の重要文化財です。
榎社の本殿の裏には、道真に餅を差し入れたと伝わり、梅ヶ枝餅の由来としても語られる浄妙尼(じょうみょうに)をまつる祠もあります。