古くから海外との貿易で栄えた博多は、16世紀後半、九州北部をめぐる大名たちの争いのなかで、たびたび戦火に見舞われました。1580年(天正8年)ごろには龍造寺軍の攻撃で町が焼かれ、宣教師ルイス・フロイスは、日本でも有数の豊かな町が跡形もなく焼き尽くされたと書き残しています。
秀吉の箱崎滞在と博多の復興
1587年(天正15年)、島津氏を降して九州を平定した豊臣秀吉は、筥崎宮(はこざきぐう)に陣を構え、九州の大名たちに領地を割り振るなどの戦後処理を行いました。滞在中には、千利休や博多の豪商・神屋宗湛(かみや そうたん)らを招いた茶会も開かれています。秀吉は荒れ果てた博多の再建を命じ、黒田官兵衛(孝高)や石田三成らが実務にあたり、神屋宗湛や島井宗室(しまい そうしつ)ら博多の豪商も大きな役割を果たしました。秀吉が博多の復興を重んじたのは、のちの朝鮮出兵を見すえた補給の拠点と考えていたためともいわれます。
碁盤目の町と「流」
こうして博多は、通りが縦横に走る碁盤の目のような町並みに生まれ変わりました。この区画整理が「太閤町割り」です。通りをはさんで向かい合う家々が一つの町をつくり、いくつもの町が集まって「流(ながれ)」という単位を形づくりました。流は江戸時代を通じて博多の自治を担う組織となり、博多祇園山笠では太閤町割り以来の七つの流が、順番に山笠と奉納能の当番を務めました。今も山笠は流を単位に運営され、中洲流・千代流などを含む7つの流が、それぞれ舁き山笠(かきやまかさ)を出しています。
今に残る復興の記憶
戦火で焼けた石や瓦を土に塗り込めた「博多塀」は、町割りによる復興のなかで生まれた土塀で、櫛田(くしだ)神社の境内に復元されています。櫛田神社の社殿も、このとき秀吉によって建てられ、寄進されたと伝えられます。神屋宗湛は町割りの際に屋敷地を与えられ、その跡には今、秀吉をまつる豊国神社が建っています。町割りに使われた測量用の間杖が、戦災で失われるまでご神体だったとされます。