飛鳥〜平安7〜11世紀

大宰府と迎賓館「鴻臚館」

九州を治め、外交と防衛を担う大宰府が置かれ、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれました。博多湾に面した丘には外国の使節や商人をもてなす迎賓館「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、その跡は今の舞鶴公園(福岡城跡)にあります。

大宰府が整えられた背景には、7世紀後半の東アジアの緊張がありました。663年、百済を助けるために送った倭の軍勢が白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の軍に大敗すると、朝廷は侵攻に備えて北部九州の守りを固めます。翌664年には平野が最も狭まる地点に長さ約1.2kmの土塁「水城(みずき)」を築き、その翌年には大野城・基肄城(きいじょう)という山城も築きました。大宰府は701年(大宝元年)の大宝律令で正式に位置づけられ、九州の政治・外交・軍事を担う、国内最大の出先機関となります。

海外の客を迎えた鴻臚館

外国の使節をもてなし宿泊させる客館は、今の舞鶴公園の地に置かれました。初めは「筑紫館(つくしのむろつみ)」と呼ばれ、688年(持統天皇2年)には新羅の使節をもてなした記録があります。9世紀前半、唐の外交官庁「鴻臚寺(こうろじ)」にちなんで鴻臚館と改められました。遣唐使もここで船の準備を整え、風を待って旅立ちました。9世紀後半からは中国の商人が滞在し、大宰府の役人の検査を受けたうえで、朝廷の判断を待って交易を行う場となります。1047年(永承2年)、宿舎に火を付けた者が捕らえられたという記録を最後に、鴻臚館は文献から姿を消し、11世紀後半以降の遺構や遺物も見つかっていません。鴻臚館は京都と大阪にも置かれましたが、遺構が確認されているのは福岡だけです。

野球場の下から現れた遺跡

1926年(大正15年)、九州大学の中山平次郎が鴻臚館は福岡城内にあったとする説を唱えましたが、遺構は城や陸軍施設の建設で失われたと考えられていました。1987年(昭和62年)12月、平和台野球場の外野席改修に伴う調査で、柱穴の列と大量の輸入陶磁器が見つかります。中国の越州窯(えっしゅうよう)系の青磁、イスラム陶器、新羅の陶器、西アジアのガラス器など、国際色豊かな品が出土しました。2004年(平成16年)に国史跡となり、1995年(平成7年)に開館した鴻臚館跡展示館が遺構を伝えています。2026年には、使節や商人を迎えた北館の東門が復元されました。

なお、古代の役所とその遺跡は「大宰府」、中世以降の地名や天満宮は「太宰府」と書き分けるのが一般的です。古代の印に「大宰之印」とあることなどが根拠ですが、奈良時代の文書にも「太宰府」の表記があり、どちらが正しいかは断定されていません。大宰府の中心だった政庁の跡は大宰府政庁跡として、鴻臚館の跡は福岡城跡・鴻臚館跡として整備されています。

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